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2013年07月17日

トップインタビュー【経営指針】

二度の倒産劇から得た「共生」への気づき。 25年の実践を経て、今、新たなステージへ 【前編】

「共生」を何よりも重視する経営姿勢の株式会社エーオーエー・アオバ。代表取締役の白井常雄社長に、二度の倒産を経て今日に至るまでの波乱万丈の歩みについてお伺いした。

トップの修羅場・土壇場・正念場 第6回

 

株式会社エーオーエー・アオバ

代表取締役 白井常雄さん

トップの修羅場・土壇場・正念場 第5回
株式会社エーオーエー・アオバ
代表取締役 白井常雄さん
二度の倒産劇から得た「共生」への気づき。
25年の実践を経て、今、新たなステージへ 【前編】
活性酸素とSOD研究の世界的権威・丹羽耕三博士の提唱する免疫療法と、SOD様食品の普及活動にまい進する株式会社
エーオーエー・アオバ。同社は創業以来、「宇宙・地球・人間の調和」という独自のビジョンを掲げ、社会貢献を第一の目
的に活動してきている。売り上げでもなく、利益でもなく、成長や発展でもない。「共生」を何よりも重視する経営姿勢は
、代表取締役、白井常雄氏の二度に渡る倒産経験から生まれたという。
株式会社エーオーエー・アオバ
代表取締役 白井常雄さん
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<プロフィール>
昭和14年(1939年)1月10日、愛知県豊橋市生まれ。
時習館高等学校卒業、青山学院大学を中退。
昭和63年(1988年)株式会社エーオーエー・アオバを創業して現在に至る。
・一般社団法人丹羽免疫療法振興会http://niwa-sod.org/index.html 理事長
・一般財団法人 日本木彫芸術文化財団http://www.mokucho-geijutsu.com/ 代表理事
・一般財団法人 伝統文化保存協会http://www.kyoto-dentobunka.jp/index.html 理事
・皇室菩提寺 御寺泉涌寺を護る会http://www.mitera.com/ 理事
・NPO法人 日本水中科学会協会http://www.jaus.jp/ 理事
・社団法人日本作家クラブhttp://nihonsakkaclub.or.jp/ 会員
・株式会社 アオバオーシャンパーク 取締役会長
<企業データ>
商 号:株式会社エーオーエー・アオバ(http://aoaaoba.co.jp/)
所在地:〒112-0015 東京都文京区目白台3-4-11 GFビル2F
代表者:代表取締役 白井常雄
設 立:1988年6月1日 丹羽耕三(靭負)博士との劇的な出会い。会社設立。
株式会社抗酸化食品普及協会として事業開始
1989年1月5日 丹羽博士よりAOAの商号を許可されるに伴い、
社名を株式会社エーオーエー・アオバに商号変更
資本金:1億円
事業内容:健康関連事業、環境関連事業
■聞き手/株式会社オンステージ・ミキ 代表取締役 大内美樹
IMG_4945 - コピー.JPG
<聞き手Profile>
・大学卒業後、ミュージカルカンパニー入社。のち女優からプロデューサーに転身。
全国100を超える自治体、企業、官公庁等へのアプローチで手腕を発揮。各界各層との独特なヒューマンネットワークを構築
。2006年、株式会社オンステージ・ミキ設立。代表取締役就任。ビジネスマッチングプロデューサー、新規事業コーディネ
ーター、経済セミナー開催、ビジネス誌の連載を務める一方で、培ってきた人脈を活かし、東京・西麻布に会員制和食レス
トラン「くすもと」も運営する。
【前編】
ジレンマの中で育った幼少期。
大学でダイビングの魅力のとりこに
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大内
本日は、三河でお生まれになって、学生時代から事業を始められ、二度の倒産を挽回して…という激動の人生を歩んで来ら
れている白井社長の半生を振り返るとともに、独自の経営哲学に迫ってまいりたいと思います。始めに、小さい頃のお話か
らお伺いできますか?
白井
僕は、水とすごく縁が深い人生でね、豊川の三河湾河口に生まれました。父母は日本キリスト教団の幹部で熱心なクリスチ
ャン。物心ついたときから、日曜学校に行かないとお小遣いがもらえない、あるいはお菓子がもらえないという生活で、あ
る種の宗教的な雰囲気の中で育ちました。でも、僕は小学校のときから、学校帰りに素っ裸で川に飛び込んだりと、もとも
とやんちゃで腕白(笑)。そんな自分の部分と、宗教とは相容れず、両親に対する反発心につながっていきました。大学進
学では、慶応大学を希望したものの、親父は断固反対。ミッション系の大学か公立しか認めないというので、猛烈に反抗し
ましたが、結局、青山学院大学に入学しました。下宿先は渋谷の姉の家。親の監視下に置かれてしまったわけです。姉の夫
は、アメリカの退役軍人で、日本に初めてポテトチップスとポップコーンを持ち込み、事業を展開していました。そこで小
遣いは自分で稼げというので、土日は百貨店などで実演販売をしていましたが、当然足らない。麻雀に手を出すようになり
ました。そんなとき、たまたま先輩に、「潜り」、今でいう「スキューバダイビング」を教わりまして、ひと目でその魅力
にとりつかれてしまいました。それからは、潜りのお金を捻出するために必死でアルバイトをやって、麻雀をやって、大学
はほったらかし。4年後、親父に呼ばれて、「4年間授業料を払ってやった。親の義務はこれにて終了」と切られてしまいま
す。これを機に、姉のところを出ました。神田やっちゃ場という青果市場で、米軍キャンプに野菜と果物をデリバリーする
という、日当の高い仕事を見つけ、朝5時起きで昼までアルバイト、午後は大学で講義を受けると生活を続けていました。生
きるために、英語を死に物狂いで覚えましたよ。
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スキューバダイビングに熱中していた当時の白井さん
ダイビング器材のエージェント権を獲得
学生時代に初の起業
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大内
1960年前半というと、レジャーの一つとして、スキューバダイビングが楽しまれるようになって間もない頃でしょうか。
白井
まだ日本におけるスキューバダイビング人口は1,000人?2,000人といったところ。僕が潜り始めて2年後に、日本アクアラン
グというダイバー向け器材メーカーができました。それまでは米国進駐軍の横流しを器材として利用していましたね。
僕は、「海に潜ることほど素晴らしいことはない」「潜りに人生を懸ける」というくらいに夢中になり、当時、スペアフィ
ッシング(*素潜りで銛や水中銃を用いて魚類を捕らえる水中スポーツ)も始めていました。あるとき、米国AMF社のS
WIMASTERというブランドの水中銃が欲しくて、日本の代理店に買いに行くが、なかなか購入させてもらえない。米
国AMF社に「日本経済はいよいよ爆発する。レジャーも盛んになるだろう。貴社ではどんなマーケティングプランを描い
ているのか。水中銃一丁も買えないような代理店があるか!」と、3回も4回も手紙を書きました。後日、来日した同社のシ
ニアヴァイスプレジデントの前でも、「日本は海洋国で海洋民族だ。今こそ、日本に注目して投資すべきだ」と持論を展開
。すると、「1年間だけ、君にエージェント権(ダイビング器材の販売代理権)を渡そう」と。見よう見まねで国際アクアス
ポーツという会社を作り、色々活動していきました。そうこうしているうちに、「白井は情熱と将来性がある」と評価され
、さらに3年間のエージェント権を獲得。しかし、日本のマーケットは実際には厳しく、簡単には食べさせてもらえない。何
で稼いだかというと、海女さん向けウエットスーツやダイビング機材等を販売。海女さんの集落を訪ね、真っ赤になりなが
ら、すっぽんぽんの海女さんたちを採寸したのを覚えていますよ。それでも食べられないときは、魚などを売ってしのぎま
した。傷のついた売れない鮑は、朝は味噌汁、昼はステーキ、夜は刺し身にして、自分たちで食べるんですが、3日も続けば
見るのも嫌になる(笑)。苦しみながらやっているときに、AMFジャパンを通して、大沢商会が会社ごとヘッドハンティ
ングしたいと言ってきた。最初は抵抗していたんですが、「組織の勉強をぜひやったほうがいい」と説得され、エージェン
ト権を持って、大沢商会に入社するわけです。
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ダイビング仲間と(右から2番目が白井さん)
レジャー開発事業に乗り出すものの
石油ショックで急転直下の倒産
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大内
大沢商会ではどんなお仕事をされたんですか?
白井
会社が費用を出してくれて、カリフォルニアの潜水学校に入学し、数か月でダイビングインストラクターの資格を取得。日
本でダイビングの指導を始めました。僕は、新しいことや、人がやらないことをやるのが好きでね、仲間と日本潜水会とい
うダイビングの指導組織を作ったり、日刊スポーツ、スポーツ報知とジョイントして初めて潜水教室を開催したり。JTB
と組んで「ドゥスポーツ」という、三宅島・大島・八丈島に行ってダイビングを教え、ライセンスを与える、いわゆるパッ
ケージツアーを始めたのも、僕が最初です。でもね、結局僕は組織ではダメなんだよね。直属の上司が部下の成功は自分の
もの、失敗は部下の責任、社長に取り入ってちゃらちゃらやっているのが我慢できなくて、大立ち回りをしてしまってね(
笑)。最後まで社長には引き止められたけど、独立して、RIC(レジャーアンドインダストリアルカンパニー)という会
社を立ち上げました。
大内
それは何歳のときですか?
白井
30歳前後でしたね。RICの初期のころは、船の掻き落としをやりました。船を浄化すると高くつきますから、潜って水中
で船底の付着物を取り除くんです。大沢商会のときに、船のエージェント権も取っていて、マリンレジャーが好きなオーナ
ー社長とお付き合いがありましたから、結構声がかかりました。また、大沢商会に入社する以前、葉山マリーナが出来上が
った1963年ごろから、「葉山マリーナダイバーズクラブ」という組織を作って活動していた関係で、造船関係や1級建築士、
ヨットをやっている仲間を集めて、「マリンアドバイザーズ」という研究会を設立。今後の日本のレジャーの在り方や方向
性などを議論し合い、『マリンアドバイザー』という小冊子にまとめました。それが奄美大島の名瀬市の目に留って、なん
と「250万坪の土地に東洋のハワイを作って欲しい」という依頼が。ご縁があって出入りしていた中小企業同友会の事務局長
に相談すると、「面白そうじゃないか」と言って、会員企業に声をかけてくれまして。そうそうたる企業十数社が後押しし
てくれるというので、あっという間に30億円のプロジェクトが出来上がり、RICが幹事会社となりました。横浜の企画会
社、日本大学の理工系の先生方や名瀬市の市会議員や県会議員が参加し、話も夢もどんどん大きくなっていって、ホテルも
作る、テニスコートも作る、ゴルフ場や水中観覧車も作る……と膨大なフィジビリティスタディー(*企業化調査:企業や
組織体が立てた計画について、その実現の可能性を環境面、内部の資源、・能力といった要因から評価・検証すること)を
まとめた。ところが、好事魔多しですね、1973年第一次石油ショックが起きる。参加企業からは「まだそんなことやってた
んか。石油ショックでそれどころじゃないだろ」と。全てパーです。負債総額4億7,500万円でRICは倒産。半分以上はフ
ィジビリティスタディー関連の負債です。
生ローヤルゼリーのヒットで借金を完済
ところが、ある事件で再び倒産へ
 
大内
多額の負債をどのようにして返済されたんですか?
白井
第一次石油ショックはまさにハプニングで、誰も予想してなかった。そのために潰れているから言い訳もできるし、周りも
同情してくれる。比較的、私自身も倒産に対する反省は少なかった。でも、社長の責務として借金を返さないといけない。
そんなとき、同郷の友人の勧めで、健康食品、中でもローヤルゼリーの販売を手掛けることになりました。カプセルもいい
が、ローヤルゼリーは純度も鮮度も高い「生」がいいはずだと、リサーチを重ね、生産業者から直接仕入れをすることでコ
ストを抑えて販売したら、これが当たってね。次に、台湾で良いパートナーを見つけ、商品のグレードもどんどん上げてい
った。例をあげると、生ローヤルゼリーはローヤルゼリーを採取後、72時間以内に瓶詰めしたものが普通ですが、うちのは
48時間以内。コストは上がるが、品質は安定する。説得力のある商品になると自信を持って世に出した。国内のローヤルゼ
リーの生産量が年間100トンの時代に10トンを売り上げるようになり、わずか3年半で累積負債を完済しました。
大内
素晴らしいですね。ですが、たいへん順調に行っていた会社がまた倒産の憂き目に……。いったいどんなことがあったので
しょうか。
白井
飲む美容食であるローヤルゼリーに加え、外側からの美容も手掛けようと、美容業界への進出を計画していたころ、大阪の
中堅美容機器製造会社から業務提携の申し出をいただきます。調べてみると、営業力は乏しいが、資産は豊富だし、業務内
容もしっかりしている。オーナー社長の酒癖の悪さに、ちょっとおかしいと感じながらも、当時僕は借金を返し終わってイ
ケイケでしたから、魚心あれば水心で、ジョイントすることに。それが大成功で、打つ手打つ手が当たり、業績は右肩上が
り。年商は10億円に到達し、まさに追い風でした。ところが、提携先の会社が技術優位性を持ったスチームの新製品を完成
させた矢先、社長が酒の上の不行跡で大失態を起こします。運よく、間に立ってくださる方がいて、その一件は丸く収まっ
たものの、今度は経営を立て直さなければならない。幸い、不動産を多く持っていたため、それを担保に金融機関4行から、
計4億円の共同融資を受け、僕を代表とする新体制で会社を運営していくことになりました。さらに、手元資金に余裕を持た
せようと、大の恩人である故・石川忠先生(元宮内庁京都事務所長)のご紹介で、生保会社から1億円の融資を受け、あとは
結果を出すだけと全国を飛び回っているときに、金融機関から緊急呼び出しが。例の社長は婿養子で、社長夫人から離婚訴
訟を起こされ、担保とした不動産は既に仮差し押さえされている事実が判明するわけです。離婚和解金の要求は3億円。再建
どころではなく、融資金を当てに振り出された手形は即不渡り。負債総額10億円で二度目の倒産を迎えてしまいました。
(後編に続く)
※後編は2013年7月22日(月)に掲載予定です。お楽しみに。

 

二度の倒産劇から得た「共生」への気づき。

 

25年の実践を経て、今、新たなステージへ

 

【前編】

 

活性酸素とSOD研究の世界的権威・丹羽耕三博士の提唱する免疫療法と、SOD様食品の普及活動にまい進する株式会社エーオーエー・アオバ。同社は創業以来、「宇宙・地球・人間の調和」という独自のビジョンを掲げ、社会貢献を第一の目的に活動してきている。売り上げでもなく、利益でもなく、成長や発展でもない。「共生」を何よりも重視する経営姿勢は、代表取締役、白井常雄氏の二度に渡る倒産経験から生まれたという。

 

 

株式会社エーオーエー・アオバ

代表取締役 白井常雄さん

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<プロフィール>

昭和14年(1939年)1月10日、愛知県豊橋市生まれ。

時習館高等学校卒業、青山学院大学を中退。

昭和63年(1988年)株式会社エーオーエー・アオバを創業して現在に至る。


・一般社団法人丹羽免疫療法振興会 理事長

・一般財団法人 日本木彫芸術文化財団 代表理事

・一般財団法人 伝統文化保存協会 理事

・皇室菩提寺 御寺泉涌寺を護る会 理事

・NPO法人 日本水中科学会協会 理事

・社団法人日本作家クラブ 会員

・株式会社 アオバオーシャンパーク 取締役会長


<企業データ>

商 号:株式会社エーオーエー・アオバ(http://aoaaoba.co.jp/

所在地:〒112-0015 東京都文京区目白台3-4-11 GFビル2F

代表者:代表取締役 白井常雄

設 立:1988年6月1日 丹羽耕三(靭負)博士との劇的な出会い。会社設立。

株式会社抗酸化食品普及協会として事業開始

1989年1月5日 丹羽博士よりAOAの商号を許可されるに伴い、

社名を株式会社エーオーエー・アオバに商号変更

資本金:1億円

事業内容:健康関連事業、環境関連事業

 


■聞き手/株式会社オンステージ・ミキ 代表取締役 大内美樹

 

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<聞き手Profile>

大学卒業後、ミュージカルカンパニー入社。のち女優からプロデューサーに転身。

全国100を超える自治体、企業、官公庁等へのアプローチで手腕を発揮。各界各層との独特なヒューマンネットワークを構築。2006年、株式会社オンステージ・ミキ設立。代表取締役就任。ビジネスマッチングプロデューサー、新規事業コーディネーター、経済セミナー開催、ビジネス誌の連載を務める一方で、培ってきた人脈を活かし、東京・西麻布に会員制和食レストラン「くすもと」も運営する。

 


 

【前編】

 

ジレンマの中で育った幼少期。

大学でダイビングの魅力のとりこに

 

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大内

本日は、三河でお生まれになって、学生時代から事業を始められ、二度の倒産を挽回して…という激動の人生を歩んで来られている白井社長の半生を振り返るとともに、独自の経営哲学に迫ってまいりたいと思います。始めに、小さい頃のお話からお伺いできますか?


白井

僕は、水とすごく縁が深い人生でね、豊川の三河湾河口に生まれました。父母は日本キリスト教団の幹部で熱心なクリスチャン。物心ついたときから、日曜学校に行かないとお小遣いがもらえない、あるいはお菓子がもらえないという生活で、ある種の宗教的な雰囲気の中で育ちました。でも、僕は小学校のときから、学校帰りに素っ裸で川に飛び込んだりと、もともとやんちゃで腕白(笑)。そんな自分の部分と、宗教とは相容れず、両親に対する反発心につながっていきました。

 

大学進学では、慶応大学を希望したものの、親父は断固反対。ミッション系の大学か公立しか認めないというので、猛烈に反抗しましたが、結局、青山学院大学に入学しました。下宿先は渋谷の姉の家。親の監視下に置かれてしまったわけです。

 

姉の夫は、アメリカの退役軍人で、日本に初めてポテトチップスとポップコーンを持ち込み、事業を展開していました。そこで小遣いは自分で稼げというので、土日は百貨店などで実演販売をしていましたが、当然足らない。麻雀に手を出すようになりました。

 

そんなとき、たまたま先輩に、「潜り」、今でいう「スキューバダイビング」を教わりまして、ひと目でその魅力にとりつかれてしまいました。それからは、潜りのお金を捻出するために必死でアルバイトをやって、麻雀をやって、大学はほったらかし。4年後、親父に呼ばれて、「4年間授業料を払ってやった。親の義務はこれにて終了」と切られてしまいます。

 

これを機に、姉のところを出ました。神田やっちゃ場という青果市場で、米軍キャンプに野菜と果物をデリバリーするという、日当の高い仕事を見つけ、朝5時起きで昼までアルバイト、午後は大学で講義を受けると生活を続けていました。生きるために、英語を死に物狂いで覚えましたよ。

 

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スキューバダイビングに熱中していた当時の白井さん

 

 

ダイビング器材のエージェント権を獲得

学生時代に初の起業

 

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大内

1960年前半というと、レジャーの一つとして、スキューバダイビングが楽しまれるようになって間もない頃でしょうか。


白井

まだ日本におけるスキューバダイビング人口は1,000人 - 2,000人といったところ。僕が潜り始めて2年後に、日本アクアラングというダイバー向け器材メーカーができました。それまでは米国進駐軍の横流しを器材として利用していましたね。

 

僕は、「海に潜ることほど素晴らしいことはない」「潜りに人生を懸ける」というくらいに夢中になり、当時、スペアフィッシング(*素潜りで銛や水中銃を用いて魚類を捕らえる水中スポーツ)も始めていました。

 

あるとき、米国AMF社のSWIMASTERというブランドの水中銃が欲しくて、日本の代理店に買いに行くが、なかなか購入させてもらえない。米国AMF社に「日本経済はいよいよ爆発する。レジャーも盛んになるだろう。貴社ではどんなマーケティングプランを描いているのか。水中銃一丁も買えないような代理店があるか!」と、3回も4回も手紙を書きました。

 

後日、来日した同社のシニアヴァイスプレジデントの前でも、「日本は海洋国で海洋民族だ。今こそ、日本に注目して投資すべきだ」と持論を展開。すると、「1年間だけ、君にエージェント権(ダイビング器材の販売代理権)を渡そう」と。

 

見よう見まねで国際アクアスポーツという会社を作り、色々活動していきました。そうこうしているうちに、「白井は情熱と将来性がある」と評価され、さらに3年間のエージェント権を獲得。しかし、日本のマーケットは実際には厳しく、簡単には食べさせてもらえない。

 

何で稼いだかというと、海女さん向けウエットスーツやダイビング機材等を販売。海女さんの集落を訪ね、真っ赤になりながら、すっぽんぽんの海女さんたちを採寸したのを覚えていますよ。それでも食べられないときは、魚などを売ってしのぎました。傷のついた売れない鮑は、朝は味噌汁、昼はステーキ、夜は刺し身にして、自分たちで食べるんですが、3日も続けば見るのも嫌になる(笑)。苦しみながらやっているときに、AMFジャパンを通して、大沢商会が会社ごとヘッドハンティングしたいと言ってきた。

 

最初は抵抗していたんですが、「組織の勉強をぜひやったほうがいい」と説得され、エージェント権を持って、大沢商会に入社するわけです。

 

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ダイビング仲間と(右から2番目が白井さん)

 

 

 

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